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高校生の哲学。

高校生の哲学。

Doppelganger

 夏、夕暮れ、校舎の屋上――。

 俺は放課後、一人で屋上に上って来た。ドアの鍵はずっと前から壊れている。

 屋上には涼しい風が吹き、夕焼けに染まった町が見渡せた。

 俺は昼休みに居場所が無くなると、いつもこの場所へ来て弁当を食べたり、本を読んだりしていた。

 ドアには、遠目からは掛かっているかの様に見える鍵と「立ち入り禁止」の紙が貼られているので、人は滅多に来ない。

 実際、ここに人が来たのを俺は一度も見た事が無い。

 俺は柵の方へ近づき、下の様子を覗き込んだ。

 下には下校途中の生徒がちらほらと見えた。この高校はエレベーター付きの七階建てで、下との高さはかなりある。

 俺は今日、ここから飛び降りるつもりだ――。

 下からはまだ、生徒達の声が聴こえる。何となくだが、人のいない時に飛び降りたいと思った。

 制服の内ポケットには、知人達それぞれへの簡単な別れの言葉を書いた遺書が入ってるし、毎週楽しみにしていたテレビ番組は終わってしまったし、大好きだった連載漫画も終わってしまったし、もう、心残りは何も無い。

 俺はただ、時が過ぎるのを待った。

 暫くすると生徒達の声も少なくなり、太陽も今日の役目を終えようとしている。

 俺は柵の近くに座り込み、ずっと下の様子を眺めていた。この高さにも随分と慣れてきたし、いつでも飛び降りられそうだ。

 俺は深呼吸して、立ち上がろうかと思ったその時だった。

「おい、お前」

 突然の声に俺は驚き、物凄い勢いで声の方を振り返った。

「本当に飛び降りる気か?」

 そこには、俺がいた。

 俺は何が何だか分からず、頭の中が真っ白になった。これは夢なんじゃないかとも思った。

「は……?」

 俺は間の抜けた声を出して呆然としていたが、すぐに慌てて立ち上がろうとする。

「いや良い、まあ座って話そうぜ」

 俺はそう言って、俺の隣に座った。

 何だこれは。夢じゃないのか。頬を抓る。痛い。

 ならば幻覚か。俺は隣の俺に手を伸ばした。触れた。人間の感触だ。

「幻なんかじゃないさ」

 隣の俺はそう言って少し笑った。


 俺はこの状況が怖くて仕方無かったが、やっと少しずつ気持ちが落ち着いてきた気がした。

 しかし、何を言えば良いか分からないし、何をすれば良いかも分からなかった。隣の俺は、俺が何か言うのを待っているようだった。

 ――俺は幾らか言葉を探したが、結局良い言葉は見つからなかった。

「……お前は、何が目的……なんだ?」

「何だよ、随分な言い方だな。俺を生かす為に決まってるだろ」

「お前を生かす為……?」

「そうだけど、そうじゃない。俺はお前でお前は俺だろ」

「……ややこしいから、今は自分の事を俺、この俺の事をお前って言ってくれ」

「分かった、そうするよ」

 隣の俺は少し笑って答えた。自分の笑顔を間近で見るのは妙な気分だ。

「で、要は俺を生かす為なんだろ……ほっといてくれよ」

 俺は厳しい表情で言った。

「お前が死ぬと俺が困るんだよ。俺はお前でお前は俺だからな」

「……つまり……俺が死ぬとお前も死ぬって事か?」

「まあ、そう思ってくれて良い」

 俺は言葉に詰まってしまった。

 こんな事があって堪るか。

「……俺が死ぬとお前も死ぬって言ってるけどな、そもそもお前は生きてるのか?」

「ああ、生きてるよ」

 隣の俺は即答した。

「何から生まれて? どうやって?」

 俺は怯まず食い下がって質問した。

「今はそう言うのは関係無いだろ? お前の話をしよう」

 俺はまた黙ってしまった。何なんだこいつは。

 だが質問をはぐらかしたと言う事は、この質問はこいつにとって何か都合が悪いんだ。

 一体何が? そう考えてる内に、今度は隣の俺が話し掛けてきた。

「お前はどうして死のうと思ったんだ?」

 俺は暫く黙って言葉を探した。

「人生なんて無意味だろ?」

 俺は在り来たりな表現だと思ったが、そう吐き捨てた。

「そんな事無いさ。意味を見出そうと努力すれば、人生の意味なんて無限にある。絶対だ」

 隣の俺の偽善的な言葉に、俺は少し苛立ちを感じた。

「俺は努力しても何も見出せなかったし、もう努力するのも嫌なんだよ」

「でも、お前は今まで生きて来たじゃないか」

「だから、それが無意味だったって言ってるんだよ」

「無意味?じゃあ聞くが、お前にとっての意味があるって何だ?」

「……さあ?意味が無い状態しか知らないから」

「それは違うな……。お前は過去の人生の価値を値踏みし直しただろう? 昔は確かに、お前の人生にだって意味があった筈だ。少なくともお前はそう感じていた」

「さあ……その頃は人生の意味なんて考えてなかったからね。意味が無い事に気付いちゃったら、もう手遅れだよ」

「そんな事ない。人間の思考は時間の経過と共に変化する。お前は人生が無意味かも知れないと考えたが、それを有益にして生きる事も可能なんだ」

「俺はそんな人生を送りたく無い。無意味だから、死ぬんだよ」

「お前は一時の感情に動かされているだけだ。今まで好きだった人に突然愛想を尽かす事がある様に、どんな強い感情だって変化し得るんだ」

「……俺はこの感情を変化させたくないんだよ」

「どうして?」

「無意味だって知ってて生きてるって事は、何か幸せな事があるって事だろ?」

「……まあ、そう言う事が一番多いだろうな」

「俺はそう言う、幸せに感情を麻痺させられながら生きるのはご免なんだよ。幸せや楽しさは感情を鈍らせるだけだ」

「幸せや楽しさだって感情じゃないか」

「それ以外の感情を鈍らせるって事だよ。つまり、冷静さが欠けるって言うのかな。幸せや楽しさが少ない、所謂鬱状態の時は、凄く冷静なんだよ。自己を超越した完璧な客観視が出来てる気分……みたいな」

「……何だか言ってる事が怪しくなってきてないか?」

「何が?」

「自己の超越だとか完璧な客観だとか、さ。まあ、お前が陰気で根暗な性格だって事は分かったがな」

「何とでも言えよ。……そう、性格なんだよ。だから直すも何も無い。自殺したくなる性格なんだ」

「性格なんて経験を経た上での感情の変化の仕方だ。感情が変化するのだから、当然性格も変化する」

「ああ、そう。でも俺は変えるつもり無いから……」

「またそれか。お前はどうしてそんなに死に急ぐんだ?」

「さっきも言ったじゃんか。また同じ話をしたいってのか?」

「……お前は生きる事が無意味だと言ったが、じゃあ死ぬ事に意味はあるのか?」

「……あるよ」

「何がある?」

「この無意味な人生を終える事が出来る。……十分な理由だろ?」

「……お前は今鬱状態にあって、前向きに考えられないだけなんだぞ」

「自分でも鬱なのは分かってるよ。別に直す気も無いけどね」

「幸せなのが感情の麻痺だって言ってたが、鬱こそが本当の感情の麻痺だとは思わないか?」

「さあね……でも俺は、鬱の時の自分が一番正しい判断が出来てると思ってるよ」

「お前は生きる事が無意味だと言ったな。それを終わらせる事が死ぬ意味だと」

「ああ」

「だがそんなのは鬱な感情に支配された、一時の陰気で根暗な考え方に過ぎない」

「なら、生きようなんて思ってるのも、幸せな感情に支配された一時の陽気な考えじゃないのか?」

「それの何が悪い? 根暗に生きるよりは陽気に生きた方が有意義な人生だ」

「――陽気に生きたっていつか死ぬ」

「それは仕方の無い事だ。それが怖くて死ぬんなら、結局同じ事じゃないか。いや、早く死ぬだけ損だ」

「俺はそうは思わないけどな。今死ぬのといつか死ぬのじゃ全く違う」

「早く死ぬのが得だとでも?」

「……何て言うかな……。今、俺は大して不幸じゃない。鬱だけど、それにももう慣れた。生きようと思わなければ悩みなんて全部無くなるんだよ。だけど、生きようと思ったら別だ」

「……」

「生きるには多くの困難を乗り越えなきゃいけない。もしそれを乗り越えて、それなりの幸せを手に入れられたって、その幸せは突然、死で終わるんだよ。困難を乗り越えられなかったら、辛い人生だったなって後悔しながら死ぬ」

「……」

「だったら俺は今、少しでも幸せな内に死にたい。今は大きな悩みも無いし、大して心残りも無いし……」

「本当にそれが、お前の本心か? お前は、自分の考えた事で自分を納得させたいだけじゃないのか?」

「どうしてそんな事する必要があるんだよ?」

「お前が、生きる力を無くしたからだ。努力する事に疲れたとも言うかな」

「だったら? それが何だって言うんだよ。努力して幸せになるかどうか分からない人生を生きるぐらいなら、俺は今死ぬ――!」

 俺は怒った様に、勢い良く立ち上がった。

 目の前のフェンスに向かって走り出し、フェンスに手を掛ける。

 フェンスが低かったせいもあり、もう一人の俺が止める間も無く俺はフェンスを軽く乗り越え、幅数十センチメートルの地面に着地した。

「感情的になるんじゃない。今死んでも虚しいだけだ……」

 もう一人の俺は俺の様子を見ながら、ゆっくりとフェンスに近付いて来た。

 俺は、近付いたら飛び降りるぞ、何て月並な事を言おうと思ったが、不思議ともう一人の俺が近付いて来るのを黙って見ていた。

 気付けば、辺りは満天の星で、中途半端な形をした月も明るく輝いていた。

 自分の住んでいる所は割りと都会の方だと思っていたのに、こんなに星が綺麗なんて――俺はほんの少しだけ感動してしまった。


 もう一人の俺は軽々とフェンスを乗り越えて、俺の隣に座った。

 直ぐに説得されるかと思っていたが、意外な事に、隣の俺は黙って空を見ていた。

 釣られて俺も空を見上げる。

 満天の星だ――開放的な気分になる。死に対する恐怖が薄れていくような気がして心地良い。

 その心地良さは、隣の男の言葉で失せる。

「お前は努力しても幸せになるか分からない人生を生きるぐらいなら死ぬと言ったが……」

 俺は星空から隣の気味の悪い男に目の焦点を変え、軽く睨んだ。男は全く動じない。

「それも生きてる間だけなんだぞ。死んでしまったら、幸せになるかどうか分からない、何て事すら無い。詰まり、死ぬって事はゼロになるんじゃない。死は圧倒的な略奪だ」

 俺は一度気分が切り替わって晴れた気持ちだったのに、この男はまだ説得し続けて来る。俺は少し苛立ちを感じた。

「略奪何て幾らされても良いよ。どうせ俺は、大した物なんて持ってないんだからね」

 俺は自嘲の笑いを見せた。

「今は持ってなくても、これから手に入れられる物だってあるじゃないか。死ぬって事はそれすらも奪うんだぞ?」

「でも、これから手に入る苦しみだって奪ってくれる」

「苦しみなんて幸せな感情で麻痺させられるじゃないか」

 隣の俺は、俺を嘲笑うかの様に、少し笑った気がした。

「麻痺させるには幸せが必要だろ――俺は苦し紛れの為に努力する何てご免だよ」

「苦し紛れ何かじゃない。お前は今幸せじゃないからそんな事が言えるんだ」

「そうかもね。でも幸せじゃないから、正しい事が何か分かるんだ」

「……冷静になれば、後から考えれば、先に考えれば。幸せ何て物は魅力的に見えない物かも知れないな」

「……ああ」

「だが、実際に幸せを実感すれば、それは下らない、感情を麻痺させる物何かじゃ無い事が分かる」

「……あっそ。でも俺はそう思える程の幸せなんて味わった事無いし、感情を麻痺させる物じゃないって分かる、って事自体、感情が麻痺してるんだと思うけどね」

 俺は、隣の俺がまた偽善的な事を言ってるのが嫌だった。

「麻痺してたって良いじゃないか、麻痺してる間は辛い事は忘れられるし、確かに幸せなんだから」

「その幸せを欲しいと思うかどうかだよ……俺は幸せ何か求めちゃいない。早く楽になりたいんだ」

 苛苛。

「お前の言ってる事が間違ってるとは言わないさ。だが、正しい事をするだけが人生じゃないだろ? 間違ってたって良いんだ。本当に自分が幸せになる方法を考えろよ」

「これで本当に幸せになれると思ってるからやろうとしてるんだよ」

 苛苛。

「嘘だ。死ぬ時に何も心残りが無い何て、そんなのは幸せな人生じゃない。それこそ無意味な人生じゃないか。生まれ来た事を無駄にする事だ」

「生まれて来た事何て無意味だよ」

「お前はまだ生まれて十数年しか経っていない。これから味わう幸せだってあるし、いつか死にたく無い理由だって出来る」

「そんなの何の保証も無いよ」

「確かにそうかも知れないが、このまま生まれて来た事を無意味にしたまま終わるよりは良いだろう? お前はまだベストを尽くしてない」

「うるさいな、俺の人生なんて無意味で良いよ」

「自暴自棄になったって仕方ない。今は幸せじゃない状態が長く続いてるから、それがずっと続くと思うかも知れないが、一度大きな幸せがあれば、今までの事なんて一瞬に思える。幸せの感情は強いんだ」

「大きな幸せが来るのなんて待ってる内に、俺は僅かな不幸に耐え切れなくなるよ」

「それを耐えるにはお前の努力しか無いな。だが、お前だって何か目標とか生き甲斐が見つかれば生きたいと思ってるんだろう?」

「そんな物、まず見つからないよ。第一、今までだってずっと探してたのに見つからなかったんだ。そんなに必死で探すぐらいなら、何もしなくて良い方法――死を取るのが当然だろ?」

「まだ見つかってないかも知れないが、お前の人生だってまだ終わってない。時間は沢山あるさ。焦らずに努力すれば、きっと見つかる」

「無責任な事言うな」

 何時の間にか風は止んでいた。漸く暑さに気付く。少し喉が渇いてきた。苛苛する。死ねば楽になる――。

「疲れてるなら少し休めば良い。気力が回復したら、また努力すれば良い。諦めるにはまだ早いさ」

 偽善的な事を――!

 俺の苛立ちは頂点に達した。

 俺は地面を蹴る様に立ち上がった。

「落ち着け、冷静になるんだ。今のお前は怒りで感情が麻痺しているんだ」

 隣の俺も立ち上がり、俺を抑えようと手を伸ばした。

「黙れっ――!!」

 俺はそのまま隣の俺の腕を掴み、柔道の技の様に素早く脚を払った。

 ――それは、一瞬だった。

 隣の俺は重心を崩し、宙に投げ出された。その体の遥か下にはコンクリートの地面がある。

 隣の俺は俺の体にしがみ付こうと咄嗟に手を伸ばしたが、その手で俺を掴もうとはせずに、そのまま落下していった。

 疲れてもいないのに、俺は全速力で走った後の様に息が荒くなっていた。

 心臓の鼓動が凄まじい勢いで暴れている。

 体が震える。

 ――頭の中は真っ白だった。

 そっと下を覗くと、自分が倒れていた。

 男が地面に落下したと同時に、俺の体の色が少しずつ薄くなり、このまま消えていく様だった。

 そうか……俺が死ぬとあいつが死ぬって事は、あいつが死ぬと、俺も死ぬんだ……。

 でも、こんな死に方ならまだマシかな……。

 あいつは……あいつはもう一人の自分だった。多分、俺の中にあるもう一つの心だったんだ。

 どっちが正しかったんだろう。

 あいつは俺を引き止めようとしてたんだよな……詰まり、俺は後悔してたって事なのか……?

 今となってはもう分からない。

 ――俺の体は、下半身が完全に消えていた。まるで、このまま空と一体になれる様な感覚だった。

 けれど、何だか晴れない気持ちだ……。

 あんなに綺麗だった星も、今はそれが遠い物だと実感する。

 何故だろう。あんなに苦しまないで死ぬ事を望んでいたのに。

 俺は今、虚しいのだろうか……。

 ――俺の体は、既に腹の辺りまで消えていた。

 でも、これで正しかった様な、不思議とそんな気もする。

 ――俺の体から、腕が消えていった。

 ……これが俺の人生の正しい生き方って事か?

 ――俺の体は、首から上だけになってしまった。

 俺の人生……

 ――俺の体は完全に消えた。


 翌朝、飛び降り自殺と見られる、一人の男子高校生の遺体が発見された。

 死亡した少年は涙を流していたと言う――。






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